自分と暮らす

一人暮らしを始めて半年が経った。

 

最初の週に込み上げた寂しさは落ち着き、程よい距離感に親がいる。その代わりに、より親密になったのは恋人でもなく友人でもなく自分だった。

 

自分の料理の味付け、洗剤や柔軟剤の好みを初めて知った。

 

怖かったり、悲しかったりした時にどういう風に対応したら落ち着けるのかや、仲良かった人のお金使いや価値観が違って見えたりした。

 

月々の家賃で、好きなものが買えるじゃん?もったいないよ。と言う人ももちろんそれは一つのアイデンティティだが、経験にお金を払うことも素晴らしいと思う。

 

着ることも無ければ、残ることもなく、見えるものでもないけれど、きっとその人の雰囲気や人生の選択に関わる大切なものだ。

 

まだ知らないことがあることを知っている人は、とてもセクシーだと思う。なぜなら、傲慢でなく謙虚で、まだ見ぬそれへ好奇心に満ち溢れているからだ。

 

暮らし始めても、本を読んだりNetflixフェミニズムに関するYouTubeを見始めた。それに伴い、自分の核となるものが出来始めている。

 

知れば知るほど辛く厳しい現実を知るが、さらにその先を知れば暖かく優しい世界があることも知った。

 

幾度となく静かな夜に、ゆっくりと形ができ始めている。自分と暮らし、対話をしていた間に。

「若い人」と呼び止められた日

 

バイト先でハンドスピナーの落とし物があった時、年上の方にタイトル通り「若い人」と呼び止められた。

この人は私を若いというだけの存在と認知してるのかと思うと悲しかった。

 

悪気がある、ないの話ではなくて私が「おばさん」「年寄り」と彼女を呼び止めたらどんな反応をするのかな?と考えた。

 

職場で「そこの若いの」と呼び止めはしても、目上に対して年齢を比喩した言葉で呼び止めている事は見たことがない。

 

年配の方が若い人に対してしてそうしていいと思うのは、若い事に価値があるから失礼ではないという価値観なのではないだろうか。

 

年齢に縛られるのは辞めよう。

 

若さに価値を置けば、歳を取ることが辛くなる。価値が減っていってしまう。だけど、本当はそんな事はない。年老いていく事は当たり前の事だからだ。

 

実際、私はハンドスピナーの事をよく知らない。若い人が全員流行り物を知っている、という偏見に過ぎないのだ。

 

世の中には当たり前はなく、皆んなが皆んな違ったバックグラウンドや個性を持っている。

 

性の対象や、産まれた国や育った国、周りの環境と沢山ある。どんなに若くても、大変な過去を背負っている人だって世の中には大勢いる。

 

それを誰に押し付けるでもなく、ただ生活を、仕事をしている人を、年齢で一括りにして分かったように話すのは、人と深く関われていない、色んな人がいると知る機会を持たなかった経験不足を話しているようだ。

 

当たり前も普通もないし、違う事をどちらかに正す必要もない。ただ、みんなが自分らしくあり、それを尊重し合えたらいいな、なんて日が来るのを夢に見て、今日も働いている。